ダンスについて
ボールルームダンス(社交ダンス)のはじまり

 17世紀に入って、アメリカ独立戦争が始まり中産階級の市民社会が生まれていきました。一方フランスでも大きな革命が起ころうとしていました。
 1793年フランスの国民は、高い税金や戦争や、貴族階級の気まぐれに飽き飽きし、かつらを着けた圧制者を断頭台に送りました。
このフランス革命はそれまでのアンシャン・レジムと言われた古い政治、社会制度や、古い貴族制度及び宮廷舞踏の終焉を意味するものです。
 生まれたばかりの中産階級は、娯楽を求めてパリの街角を歩き始めました。
 フランス革命によって宮廷舞踏は滅んで行き、今ではバレーの世界においてのみ「宮廷舞踏」らしきものが見られると言われています。
 宮廷舞踏は滅びましたが、それらは違った形で残り、第一は観賞用の踊りとしてバレーとなり、第2は社交としてのダンス(ボールルームダンス)として残されました。
日本の歴史

 日本のダンスの歴史を語るとき、鹿鳴館の舞踏会から始めることに異論を立てる人はいないでしょう。確かにそれ以前、西洋のダンスに接した人は記録に残っています。
 1860年には、日米修好通商条約の批准のために使節団がワシントンを訪れていますし、1868年のパリの万国博に、渋沢栄一たちがヨーロッパに渡っていますから、ダンスに接した事は疑うべくもありませんが、これは見聞の一つに過ぎず、ポジティブにダンスに関わりを持ったとは言えないからです。

 日本でダンスを伴ったパーティーが初めて行はれたのは明治16年1月11日(1883)、木挽町の明治会堂で日本の中に沸き起こった欧化主義の現れでした。
 明治政府としても、「欧米なみの文化水準を持つ日本」を世界に印象づけるため、井上外務卿が中心になって、麹町区(現、日比谷)に「外国人接待所」として同年11月28日「鹿鳴館」を建設したのです。
 もちろん政府の高官や在日外交官など一部の上流階級に限られていましたから、現在のボールルームダンスとは異質のものでした、実際に会館の舞踏会で演奏したのは陸海軍の軍楽隊でカドリール、ランサー、ワルツ、ポルカ、ポロネーズなどヨーロッパの古典舞踊曲でした。踊ったのは殆ど外国人で、わずかに留学経験のある津田梅子など数える程だったと言われています。
 井上らはこうした事態を恥じて、東京農学校で獣医学を教えるドイツ人ヤンソンを招き明治17年、ダンスの練習会を発足させますが、多くの政府関係者が「時代の波」に乗り遅れないために練習に励み一種のダンス熱がこの時代を覆ったのです。
 しかしこのダンス熱も、日米修好条約改正交渉を有利に運びたい為の見せかけの西洋化で「盆踊り禁止令」を発するなど日本の近代化の方向性は見せるものの、一般民衆にとっては全く無縁のものだったのです。
(財)日本ボールルームダンス連盟  基礎理論・実技編より

ダンスの種類

モダン種目(スタンダード)

ワルツ 3/4拍子で波の様な上下運動をしながら踊ります。
タンゴ 2/4拍子で5種目中唯一スゥイングの無いスタカートなハッキリした切れのある踊りをする。
スローフォクスストロット 4/4拍子でワルツの様な上下運動が少なく流れるように踊る。
クイックステップ 4/4拍子でワルツとかフォックスとロットの様なゆっくりとした踊ではなく、跳ねたり、走ったりする様な軽快な踊。
ウインナーワルツ 3/4拍子で宮廷などで踊られていて優雅に踊る。
ラテン種目(ラテンアメリカンダンス)

サンバ 2/4拍子でブラジル、リオのカーニバルなどで有名。
キューバンルンバ 4/4拍子で昔は悲しみの踊り、今は愛の踊りとされています。
チャチャチャ 4/4拍子で足型はキューバンルンバにチャチャチャとステップを入れた楽しい踊です。
パソドブレ 2/4拍子で闘牛士の戦う様をかたどった踊り。
ジャイブ 4/4拍子でジルバにシャッセが加わった楽しく陽気な踊り。
上記以外でよく踊られるダンス

ブルース 4/4拍子で狭い所でも大勢の踊っている場所でも踊れる易しいダンスです。
スクエア・ルンバ 4/4拍子で初心者の方に取り組みやすいラテンダンスです。
ジルバ 4/4拍子でジャイブのシャッセを抜いた楽しい踊り。
マンボ 4/4拍子でペレスプラードの演奏のマンボで有名、今ではチャチャチャの曲で踊ります。